佐渡島

■地形・気候
佐渡はアルファベットの「S」や「Z」のような形をしていて、北に1,172メートルの金北山(きんぽくさん)をはじめとする大佐渡の山地、南は645メートルの大地山(おおじやま)をはじめとする小佐渡の山地、中央部に国中平野が広がっています。

島の面積は約855平方キロメートル、海岸線は約280キロメートルあり、日本では東京23区や淡路島、海外ではグアム島プーケット島の約1.5倍の大きさがある、日本海側最大の島です。

■人口・産業
人口は約56,000人(平成30年3月末)で、四方を海で囲まれている島では豊かな土壌と気候を活かした農業や漁業などが営まれています。

農業の中心は米作りを中心に、おけさ柿、ル レクチエ、りんごなどの果樹栽培が盛んです。また古くから幻の牛といわれる佐渡牛などの畜産業にも取り組んでいます。

漁業ではカニ、エビ、イカ、ブリ、マグロなど様々な種類の魚介類が水揚げされるほか、加茂湖真野湾で育てられる牡蠣や、日本海の荒波が育んだアワビ、サザエ、海藻類など、まさに海産物の宝庫です。

 

■歴史
佐渡金山「道遊の割戸」
佐渡奉行所跡 遺跡の出土品から、佐渡には、1万年前から人が住んでいたことがわかっており、日本最古の歴史書である「古事記」の国生み神話には大八島の7番目として登場し、「日本書紀」の同じ神話には「億岐州」と「佐度州」が双子として5番目に登場しています。

奈良時代にすでに一国とされ、流刑地に定められた佐渡は、722年に皇室批判を行った万葉歌人の穂積朝臣老を始めとして、1221年に承久の乱で敗れた順徳上皇、1271年に鎌倉幕府や他教を批判した日蓮聖人、1434年に時の将軍の怒りを買った能楽の大成者である世阿弥など、中世までは政争に敗れた貴族や知識人が流されてきました。

平安時代後期の「今昔物語集」にも記録されているとおり、昔から金が採れる島として知られていた佐渡は、江戸時代に入ると、その有望性を見出した徳川家康が幕府直轄(天領)として本格的に金銀山開発を進め、採掘された金や銀が江戸幕府の財政を支えました。

鉱山の繁栄によって日本各地から山師、金穿り、大工、測量技術者、商人、漁業者などが集まり人口が急増し食糧需要が増えたため、鉱山の技術を応用して海岸段丘上に新田開発が行われました。また、鉱山で使用する炭・木材等の生産資材確保のため、山間部の森林も御林(官有林)として奉行所による厳しい管理が行われました。

このように、森林や農地が大切にされた佐渡は、国際保護鳥に指定されているトキが日本で最後まで生息した場所でもあります。トキは江戸時代末期まではどこにでもいる鳥でしたが、明治時代以降の乱獲や農薬の多用等による生息環境の悪化で絶滅寸前にまで追い込まれました。日本のトキは2003年に絶滅してしまいましたが、一方で1999年に中国から贈られたトキの人工繁殖が始まり、この年に最初のヒナが誕生しました。2000年以降も順調にヒナが育ち、また、関係者が一丸となってトキが生息できる環境の整備を進めたことにより、2008年に10羽のトキを放鳥してからは、飼育下で増やしたトキを佐渡の空に戻す野生復帰の取組みが進められています。

■流刑となった歴史上の人物
順徳上皇
真野御陵真野御陵黒木御所跡黒木御所跡
第84代の天皇に即位された順徳上皇は、父である後鳥羽上皇院政下では直接政治を執ることはなく、有職故実の研究や和歌などに傾倒したといわれています。後鳥羽上皇による鎌倉幕府の打倒計画に参画し、承久の乱を引き起こしたものの、鎌倉幕府の執権であった北条義時を中心とする幕府軍によって鎮圧され、乱の首謀者として1221年に佐渡に流されました。在島22年、都へ帰ることは許されず、46歳で崩御されました。行在所であった黒木御所や火葬塚である真野御陵など、多くの遺跡や伝説などが残されています。

日蓮聖人
根本寺妙照寺
日蓮宗の宗祖である日蓮聖人は、地震や飢饉、疫病などの災害が相次いだことから鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に「立正安国論」という1冊の書を提出しています。この書の中で、相次ぐ災害の原因は、幕府や民衆が邪教を信仰することにあるとし、法華経を信じなければ災いが起こると説き、鎌倉幕府や他の宗教を批判したとして1271年に佐渡に流されました。日蓮上人は塚原の三昧堂という荒れ果てた墓地の小堂に配所され、翌年の4月に市野沢に移されるまで半年間住んでいました。この地で他宗の僧たちと「塚原問答」を戦わせ、「開目抄」を著し、市野沢に移されてからは「観心本尊抄」を著し、初めて日蓮宗の本尊とされる法華曼荼羅を顕されたといわれています。在島3年の後、赦免となり鎌倉へ帰りました。島内には日蓮聖人ゆかりの遺跡や伝説などが数多く残されています。

世阿弥
正法寺万福寺跡
室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け、能楽を大成させた世阿弥は、6代将軍足利義教の怒りにふれ、1434年に佐渡に流されました。佐渡の多田に着いた世阿弥は、長谷寺を経て新保の万福寺に配所されましたが、近くで合戦が起きたため、泉の正法寺に移されました。在島中に世阿弥が著した小謡集「金島書」に書かれている元号から、1436年までは佐渡に滞在していたことが分かっています。その後の消息については不明ですが、嘉吉の乱により将軍が暗殺されると配流も解かれ、娘夫婦の元に身を寄せたとも伝えられています。

■宿根木

佐渡の文化は、俗に「国仲の公家文化」、「相川の武家文化」、「小木の町人文化」に大別される。国仲のそれは、中世の頃から配流の島となり、順徳天皇日蓮日野資朝世阿弥など中央からの流人の影響で形成されたものである。相川と小木は、戦国時代から近世初頭にかけて、金山と廻船による商品経済への移行が佐渡を大きく変えて、金山直轄地の「相川」と廻船港「小木」を成立させた。
宿根木は、「小木の町人文化」形成に先駆けて、中世の頃より廻船業を営む者が居住し、宿根木浦は、佐渡の富の三分の一を集めたと言われるほど栄えた。やがて小木港江戸幕府によって整備され、商業の中心が小木港へ移行すると、宿根木の者は、船主が先頭となり十数人の船乗りと共に、全国各地へ乗り出して商いを続けた。村には船大工をはじめ造船技術者が居住し、一村が千石船産業の基地として整備され繁栄した。
その時代の集落形態が今日見られる宿根木の町並みである。村を流れる称光寺川と平行し、数本の小路が海へ向かい、それに面して家屋が肩を寄せ合い建っている。約1ヘクタールの土地に110棟の建造物を配置する高密度である。建物の外壁に船板や船釘を使ったものもあり、千石船の面影をしのべる。宿根木集落の特徴は、家屋の密集性にある。

 

下記より抜粋

www.visitsado.com

 


shukunegi.com

***********************

■案内ポイント

 ①矢島・経島

www.visitsado.com

②宿根木 ガイド付き

・小木方面(北前船の船主の村として栄えた色褪せない歴史と文化・かつての栄華を今に伝える街並み)日本のヴェネチア??

www.visitsado.com

③妙宣寺

www.visitsado.com

④大膳神社

www.visitsado.com

佐渡歴史伝説館

www.visitsado.com

@昼食後~七浦海岸経由

www.visitsado.com

www.niigata-kankou.or.jp

佐渡奉行

・相川方面(400年の歴史情緒を残す佐渡金山)

www.visitsado.com

⑦京町散策

www.visitsado.com

佐渡金山 ガイド付き

www.visitsado.com

北一輝のお墓・生家

・両津方面(安政5年の日米通商条約で開港した新潟港の補助港に指定)

www.visitsado.com

***********************

観光ポイント(案)

 

 

www.visitsado.com

 

www.visitsado.com

www.visitsado.com


 


 

*********************** 

観光案内

佐渡体験を満喫する(まちなみ探訪)|観光スポット|佐渡旅行・佐渡観光の豊富なプラン|佐渡汽船|

www.visitsado.com

www.sado-bus.com

***********************

■食事

www.visitsado.com

 

shukunegi.com